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弘法大師十大弟子①
『智泉大徳』

 宗祖・弘法大師空海上人には多くのお弟子さんがおり、その一人一人を丁寧にご指導されました。後世、その中でも特に優秀だった弟子を十名、お釈迦様の例に倣って十大弟子と呼ぶことがあります。

 その中でもお大師さまが特に目を掛けていたのが、我々が智泉大徳(ちせんだいとく)とお呼びする方です。大徳は徳の高い僧侶という意味の尊称で、僧侶としてのお名前は智泉さまです。今年は智泉大徳の一二〇〇年御遠忌になります。せっかくですので今回は智泉大徳についてお話させていただければと思います。

 智泉大徳はお大師さまの姉の子で甥にあたり、お大師さまの師匠とも言われる勤操大徳(ごんそうだいとく)の所に九歳の時に預けらました。また幼少のおりから大変親孝行な子供であったとも伝えられています。因みにお大師さまの姉君も後に出家されて智縁尼(ちえんに)と名乗られています。

 十四歳からはお大師さまの従者となり、お大師さまの初めての弟子、一番弟子になります。その後は、十六歳の時にお大師さまに付き従い入唐(中国留学)もしたとも、お大師さまが帰国の後京に入れずに困窮して居たときに駆け付けたとも謂われ、常にお大師さまの傍にいらっしゃったそうです。

 お大師さまの従者としてだけでなく智泉大徳自身もまた、仁明天皇の誕生の際に普賢菩薩を木彫し祈願を行うなど名を広め神僧と称され世の崇敬を集めました。木彫の逸話にも表れているように美術的な才能もあったようです。特に絵を描くことに優れ、多くの仏を描きその画風は智泉様(ちせんよう)と呼ばれ称えられました。
 後世に伝わる智泉大徳の逸話は父母に関するものが多く、孝順の士として崇敬されています。

 

 そんな智泉大徳に、お大師さまは大変な期待をされていたようで、自身の後継者にと考えていました。実際に、お大師様は当時の有力公家宛の手紙の中に、杲隣(ごうりん)、実慧(じちえ)、泰範(たいはん)の三師とともに智泉大徳の名を上げ

「この4名の弟子は教養が深く密教の精神を体得し自身の継承者の資格がある」

と述べられています。これらの弟子は大師門下の四哲とされいずれも十大弟子に含まれています。

 

 その後智泉大徳はお大師さまの悲願である高野山開創に尽力され、頻繁に都と高野山を行き来したものの、その負担もあってか天長二年(825)二月十四日、道半ば37歳の若さで病で亡くなられました。


 その死にあたりお大師さまは、達嚫文でその人となりを

「常に寄り添い親子のように自身に仕えてくれた。学を好み、怒りをあらわさず、人の欠点を口に出すこと無く、けっして過ちを繰り返さなかった。」

と述べられています。

 また文中でお大師さまは、日常が幻のようなものであり生者必滅の定めは誰もそれを逃れられない、弟子智泉の死もこの世の定めに従っただけなのだと頭では分かっているのに、実際に弟子の死にを目の当たりにすると悲しみをこらえきれない、と述べられ、さらに

哀しい哉哀しい哉哀れが中の哀れなり~
悲しい哉 悲しい哉悲しみが中の悲しみなり
哀しい哉 哀しい哉 また哀しい哉
悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉

と何度も繰り返されその悲しみの深さを露わにされています。

 お大師様にとって、長年に渡って傍に仕えていた智泉大徳は、優秀な後継者という以上の存在で達嚫文の中で例えられているように子のように思っていたことでしょう。そんな智泉大徳を若くして失った悲しみは胸中察するにあまりあるものがあります。

 

 現在では高野山の壇上伽藍(だんじょうがらん)東塔東側に智泉大徳廟として奉られています。


 ちなみに、智泉大徳とお大師さまの地元の名産である讃岐うどんに関して、面白い言伝えがあります。中国でお大師さまが学んだ麵打ちを智泉大徳が教えて頂き、それを地元の讃岐に広めたものが現在の讃岐うどんの始まりというものです。

​舊城寺だより第十三号・第十四号より抜粋一部編集して掲載

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