高野山の六地蔵尊灯籠塔と晃圓尼
本山高野山の一ノ橋付近に六地蔵尊灯篭塔という高さ8メートルに上る大きなコンクリートとモルタル造りの灯籠が立っています。これは舊城寺先代住職・全宏の母・晃圓が発願し建立したものです。晃圓は弘法大師の夢告によって発願したといい、全国を行脚し寄進を集めたそうです。全宏の師でもある高野山三宝院・草繋(くさなぎ)全弘師がこの発願に賛同され墓地用地を提供して頂き建設委員長となられました。
塔は彫刻家の角田蘇風氏によって作成され、高野山開創一一五〇年の節目、昭和三十九年に完成しました。現住職英弘代の平成二十一年に修繕を行っています。
塔の基部には石碑で夢告された歌が以下のように刻まれています。
弘法大師お夢告の歌 野村晃円
いてつく日 やけつく日 またあらしの日
辻の地蔵の 姿しのべよ
また灯籠塔の前にある左右2基の花いけ台石にもそれぞれ歌が刻まれています。
艪の舵もみ 親にまかす 法の船
愚痴も怒りも むさぼりもなく
蓮葉の 虹のかけはし 渡す道
極楽浄土の 弥陀のみもとへ
六地蔵尊は地獄など六道に墜ちた衆生を導くとされ、かつては高野山での葬儀の際はこの塔の前で棺を三回転させたていたそうです。高野山に参拝の際はぜひ一度お参りください。
高野山にある霊宝館の発行物で以前六地蔵尊灯籠塔が記事になりました。最後に当該部分を引用させて頂きます。
『霊宝館だより』第83号(平成19年5月25日)「六地蔵尊灯籠塔とその作者 角田蘇風」より一部引用
高野山の奥之院は聖域とされる特異な空間で、杉の巨木と多くの墓石が林立することで知られています。そんな奥之院に、青と白のコントラストも印象的な、まるでおとぎ話に出てくるキノコの家のような建物があります。
建っている場所は、奥之院一の橋を渡って右手に伸びる石畳の先で、遠目にも異彩を放っていることから、初めて訪れる方でもすぐに気付かれると思います。「六地蔵尊灯籠塔」というのが建物の正式名で、なるほどその形は「灯籠」のようで、しかも高くそびえ立つといった意味の「塔」であることがわかります。
灯籠形の六地蔵塔と呼ばれるものは、全国的にも少なからず存在しています。しかし本灯籠塔のように、等身大の六地蔵尊像とするのは珍しく、当時、日本一の高さを目指して建設されたというのもうなずけます。
灯籠塔の建設発起人は東京の野村晃円(一八九五~一九七九)という尼僧さんで、弘法大師の夢告げを受けて発願したといい、全国を行脚し寄進を募っての建立だったと伝えています。当時、晃円さんの発願に賛同した高野山三宝院 草繋全弘師は灯籠塔建設委員長となり、その建設用地として自坊の奥之院墓地を提供され、後に灯籠塔と共に金剛峯寺へと括寄進されました。
完成は昭和三十九年(一九六四) 十一一月十六日で、高野山が開かれて一一五〇年、さらに明治から数えて百年を記念しての建物ともなりました。
高野山での葬儀の場合、奥之院の第所へと埋葬するに際して、担いだ棺を逆に三匝(三回転)する習わしがあります。その場所は従来、 一の橋を渡って右手に建つ関東大震災供養塔の付近であったといいます。
六地蔵尊は地獄など六道に墜ちた衆生(亡者)を導くとされていますので、六地蔵尊灯籠塔が建立されてからは、灯籠塔前で三匝するようになり、高野山での葬儀には欠かせない建物となっていました。
しかし近年、明確には高野町に斎場が完成した平成六年以降、灯籠塔前で棺を回す光景を見ることは少なくなってしまいました。
