舊城寺の歴史
舊城寺(きゅうじょうじ)のある土地には、かつて城が在りました。ここでは、その歴史について解説します。
中世の城塞として
榎下城そして久保城
伝承によると室町の頃、関東上杉氏の一人、宅間上杉家の上杉憲清が永享年間(1429年-1441年)、この地に「榎下城」(えのしたじょう)という小さな山城を築き上げました。
榎下城は、憲清の子で当時城主であった憲直(のりなお)が永享の乱に敗れて金沢称名寺で自決して以来、城主は不明ですが、
その後関東上杉氏が衰退したのちも「久保城」などと名前を変えながら、小田原北条氏の全盛期にも、北条氏家臣である小机衆の拠る小机城の出城の役目を果たしていたと考えられています。
また戦国時代後期、小田原北条氏支配下の時期には、北条被官「山田右京之進」(やまだうきょうのしん)の居城であったとする伝承があり、城西隣の畑には右京之進のものとされる五輪塔がありました。
正確な記録はありませんが、豊臣秀吉の小田原攻めの時までは、廃城と再建を繰り返しながら城として使用されていたようです。
また、かつての城主の一人が敗れ去る際に城内の井戸に金の茶釜を投げ捨てたという伝説が残っています。
久保村の長の邸宅として
江戸時代
その後、江戸時代になると久保村(現在の三保町)の長、佐藤家の住居となります。しかし佐藤小左衛門氏の代に男子に恵まれず、財産等はすべて既に他家へ嫁いでいた二人の娘に譲り、久保城跡地の屋敷に隠居します。
そして佐藤氏は、娘たちに自分の死後住居に寺を建てることを遺言として残しました。
高野山真言宗の寺院として
舊城寺の開創
こうして慶長19年(1614)、佐藤氏の娘たちによりこの榎下城跡に寺院が開かれ、この土地の歴史から「舊(旧)城寺」と名づけられました。
舊城寺のある久保村(現在の三保町)周辺の一帯は、関東における真言宗の復興また高野山無量光院の中興に尽力した、高名な学僧である印融(いんにゅう)法印(1435-1519)の出身地でもあり、真言宗と高野山に縁深い土地でした。
佐藤氏もまた真言宗寺院をと望まれ、死後娘たちによって僧侶を招き舊城寺が建立されたのです。
以来、舊城寺はこの地で、建立より高野山真言宗の寺院として活動をしています。