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三保町の名僧 印融法印(いんにゅうほういん)

 三保町の出身に今でも語り継がれる学僧がいるのをご存じでしょうか。印融(いんにゅう)という真言宗の学僧で、舊城寺が開創される200年ほど前、室町の末期にお生まれになられました。弘法大師の再来と呼び賞せられた名僧で私たち真言宗では、尊敬の意を込めて印融法印とお呼びしています。


 1435年(永享7年)、武蔵国都筑郡久保村(現在の三保町)でお生まれになりました。岩澤の旧家の生まれで字は頼乗といい、三保町には印融産湯の井戸が近年まであったそうです。


 少年の頃、印融法印は久保谷戸の滝で心身を浄めてから勉学に励まれました。現在は滝水は減ってしまいほとんど流れていませんが、不動明王が祀られており、久保谷戸 お滝様として緑区遺産に登録されています。恩田川に架かる小山橋はかつて念仏橋と呼ばれ、印融法印が架けたと伝えられておりこちらも緑区遺産に登録されるなど今なお各地に印融法印の足跡が残っています。

 

 印融は読書を好み、外出の際には必ず牛の鞍に文卓を付けて行ったと『本朝高僧伝』は記しています。現在奉られる印融像の絵画の多くは、牛に乗って巻物を読み、牛の角には経巻がかけられています。

 

 幼いころから仏門に入った印融法印は、その後京都奈良へ赴きさらに勉学を重ね、1469年(文明元年)頃から1474年(文明6年)頃までは高野山無量光院に滞在します。

 

 現在も高野山にある無量光院を再興し中興の祖と知られています。
主な弟子として、高野山金剛峯寺のトップである第187代検校となった覚融がいます。

 

 その後、自身の出身である関東で真言宗が衰退していることを嘆き、高野山を降り以降の生涯を関東での真言宗復興に尽くします。特にお膝元である横浜市内には、30を超える印融法印によって開創された高野山真言宗寺院が存在します。

 

 大変お人柄がよく、弟子に手厚く教えを伝えたことから、当時は弘法大師の再来として慕われていたそうです。多くの著書を残し、印融法印の著書は今も出版され真言宗の僧侶が学んでいます。現在も大学、大学院で真言を学ぶ学生は知らない者はいないとのことです。

 

 印融法印は、500年以上前の人物でありながら、その生涯の足取りは比較的詳細に判明しています。几帳面な性格でもあったようで、60作200巻に及ぶ膨大な著書の全てに、その著を記した場所と年月日を最後に書かれていました。それを辿ることで印融法印の足取りが辿れるのです。どうやら関東を中心に多くの真言宗寺院を周り教えを授け、関東に置いて真言宗を中興させていらっしゃったようです。

 

 そんな印融法印の生涯最後の著書は、当時お弟子に取っていた幼い子坊さんの為に書いた初学用の勉学書でした。この著を書き上げられてしばらく後、1519年9月8日(永正16年8月15日)に印融法印は八十五年の生涯を終えられています。

 

 辞世の歌は「生るるも阿字より来れば死にとても本の不生に帰りこそすれ」

 

 印融法印が、弘法大師の再来と称えられたのは、その学徳もさることながら活動的に真言宗の復興に携わられた姿、そして何より高野山のトップに立つことになるような優秀な僧侶から仏門に入ったばかりの幼い弟子に至るまで、労を問わず寄り添って教えを説かれたその姿勢にあったのでしょう。その証左か、関東の談林(学問をする寺院)60余ヶ所では入寂の後、印融法印の肖像を掲げて毎年供養したそうです。

 一方、当時真言の中心であった、都の真言僧にとっては関東で勢力を持っていた印融法印は眼の上のたんこぶであったようで、入寂後、東寺の亮恵ら中央の真言宗教団は著作に対して痛烈な批判し関東における勢力を伸ばそうとしたようです。

 

 現在も横浜市内のいくつかの高野山真言宗寺院には印融法印の墓があり、いずれも横浜市の文化財として登録されています。また、埼玉県にも墓碑があるそうです。

 

 2018年には500回忌法会を印融法印の流れを組む高野山真言宗寺院で行い舊城寺からも出仕させて頂きました。

 

 舊城寺の出来る前から三保町は、高野山そして真言宗に大変縁の深い土地であったのでした。


2025/12/9

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